投稿

ラベル(@宿毛市)が付いた投稿を表示しています

112. 悲劇の宰相か、はたまた鬼か

イメージ
  「米不足」「米の値段が高騰」という文字が、ニュース記事をにぎわせております。 最近の天候不順は深刻です。 そんな中、高知市の春野地区を通りかかったとき、実りかけた稲がそよそよと揺れている風景が広がっていました。 400年ほど前に、荒地に用水路を作る指揮をとった野中兼山さんと、実際に働いてくれた多くの人々に感謝やなあと、しみじみ思いました。 山内家と親戚関係だった野中兼山さんが、土佐藩執政の座についたのは22歳。(一説には17歳) 他の年長者を差しおいてですから、さぞかし周りは面白くなかったことでしょう。 財政を確立するために、新しい田んぼを作り年貢を増やそうと仕事に邁進していきます。

63. 荒瀬の地蔵堂と白いカラス

イメージ
  前回は、宿毛市の湊浦に伝わる皿屋敷伝説を探ってみました。→ 前回はコチラ そしてお話の中で、夜な夜なお皿を数える女中の霊を祀った小堂を、庄屋の息子が荒瀬の地蔵堂のわきに移した─────ということで、やってきました地蔵堂。 地元の方たちがよく手を合わせにきているんだろうな、と感じられるお堂です。 目的が”地蔵堂のわき”だったために、お堂本体への興味が二の次になってしまってましたが、落ち着いて見てみると・・・お堂の方からも伝説の香りがしてきましたよ・・・ まず、今から千年余り前に、この地域に金龍寺と金蔵寺という2つの寺院があったそうです。 数百年続きましたが、一時は無住寺になっていました。 1628年に伏見の国(京都市南部)からやってきた兄弟が、修行を重ねたのちに住職になられたようです。 当時は、本尊の地蔵菩薩は秘仏だったそうですよ。 しかし、明治3年の神仏分離統合により廃寺となったということです。 でも、お地蔵さまは残ります。 金蔵寺の子孫の方によって祀られていましたが、現在は地区の方々で奉祀されているとのことです。 延命子安のお地蔵さまだそうです。 お堂の中には、産着が何枚も奉納されていました。 祈りって自分以外の人の健康や成長を願うことって多いなあと、ぼんやり考えました。 誰かに祈ってもらえるって、幸せなことですね。 それにしても、皿屋敷伝説に出てくるくらいですから、ご利益がありそう。 皿屋敷の年代的に、その頃は地蔵堂ではなく金蔵寺あったんじゃ?というツッコミは飲み込んでおきますね。 そして、最初に探ったお堂のわき。 お墓っぽい石とお地蔵さまがおられます。 そのお墓っぽい石は、金蔵寺の住職・行海さん(兄弟のお兄さんの方)のお墓だそうです。 皿屋敷の小堂関係ではなかったようです。

62. 幡州皿屋敷 異聞

イメージ
  夏といえば、やはり怪談。 昭和のころは、幽霊は柳の木の下からヒュードロドロ。 そして必ず「うらめしや~」。 額には三角の布、白い着物が定番でした。 怪談といえば『お岩さん』と『お菊さん』が有名どころだったなあ。 今日は、その『お菊さん』が登場する皿屋敷の話です。 皿屋敷といえば、無念の死を遂げたお菊さんが、井戸の中から現れて一枚二枚とお皿を数えるお話です。 東京の江戸番町が舞台の『番町皿屋敷』がよく知られていますし、兵庫県の播州姫路の『播州皿屋敷』も有名です。 でも実は、皿屋敷伝説は高知県にもあるのです─── それは、高知県西部にある宿毛市の湊(みなと)のお話です。 その昔は、湊浦と呼ばれていました。 海が深く、大きな船も出入りする立派な港だったそう。 多くの船が行き交い、商人もたくさん住んで賑やかだったそうです。 宝永の大地震などで大きな被害を受け、海が浅くなってしまったとのこと。 今では、港町の面影は無くなってしまいました。 文政八年(1825年)より百年くらい前の話といわれています。 幡多郡奥内湊浦に、与次右衛門という庄屋さんがいました。 その家の女中は、隣村の伊与野から来ていました。 さて、この庄屋さんの家には10枚の秘蔵のお皿がございました。 ある時そのお皿のうちの一枚が失くなってしまいました。 与次右衛門は、女中を疑います。 強く責め、問い詰めても答えないので、激怒。 竹の簀でぐるぐる巻きにして、縄で縛り庭のすみに転がしておきました。 簀とは、むしろっぽい物のことでしょうか。 これを見て里の人は忍びなく思い、ひそかに縄を解いてあげました。 女中は悔しくて、簀巻きより出て、近くの森で首を吊って死んでしまいました。 駆けつけた親は、嘆き悲しみながら、霊になったなら与次右衛門の子々孫々までこの恨みを報いさせよと、亡骸に言い聞かせたそうです。 それからというもの、与次右衛門の家では奇怪なことが起こります。 夜半すぎにあの女中がやってきて、お皿を一枚二枚と数えていき、九枚目になるとワッと泣き叫びます。 そしてまた、一枚二枚と数えていき嘆くのです。 これが毎晩続きました。 神様や仏様に祈りましたが、いっこうに止みません。 ちょうどその頃、播州より各地を回っている...

50. 恨まずにはおれませぬ

イメージ
  夏ですから、怪談話をひとつ。 時は江戸時代、宿毛(すくも)市の話でございます。 山内一豊公の甥が、宿毛山内家領主として土佐西部の守りについていました。 物語は、三代目の節氏(ときうじ)の時代。 節氏が、奉公に上がった町屋の娘・おなあに手をつけたところから、この話は始まります。 ほどなくおなあは懐妊。 節氏の奥方は嫉妬深く、出産には反対します。 重臣たちも、後々の問題になることを心配し、やはり反対の立場です。 男の子であれば殺してしまおうという事になりました。 その役目に選ばれたのは、おなあの侍女およきでした。 おなあは、玉のような男の子を産みます。 しかしおよきには、どうしても殺すことができません。 とうとうおなあに相談し、男の子をよそに預け、節氏には命ぜられた通りに殺したと報告しました。 男の子は、宿毛から少し離れた柏島ですくすく成長します。 そして15歳で元服、つまり一人前と認められる歳になったので、おなあも大丈夫だろうと節氏に息子のことを話しました。 すると節氏は許すどころか、主命に従わなかったことに腹を立てます。 その子には切腹を命じ、おなあとおよきを牢屋に入れたのです。 大月町の柏島 おなあとおよきは、塩責めの罰に合います。 塩責めとは、毎日塩辛いものだけを食べさせて、水を一滴も与えないという過酷なもの。 しかも窓からは、とうとうと流れる水が見えるのです。 なんと過酷で意地の悪い刑罰でしょうか。 その時に牢の番人をしていたのは、岩村久兵衛という者でした。 苦しさに泣きわめく二人に、「何を騒いでおるか、だまれ!」と大声で叱るふりをしながら、水で濡らした手ぬぐいを牢の中に投げ入れていたと言われています。 おなあとおよきは、むさぼるように口に含んだことでしょう。 しかし二人は、どんどん衰えていきました。 ある朝、九兵衛が獄舎に向かっておりますと、向こうから白装束を着た女の人が二人やってきます。 それは、おなあとおよきでした。 「ずいぶんお世話になりました。 私たちをひどい目に合わせ殿様には、恨みを晴らさずにはおれません。 しかしお世話になったあなたのお家は、私たちが守ってあげます。」 と言い残し、去って行きました。 不思議に思いながら獄舎に行ってみる...

30. タカの神社に詣でたが、タカの夢は見えず

イメージ
  始まりました、2022年。 あけましておめでとうございます。 年始早々、気になっていた神社に行ってみました。 高知県宿毛(すくも)市の大島にある『鷣(はいたか)神社』です。 過去の南海地震の津波がどこまで来たか、という潮位碑があることで知られています。 でも、個人的に気になっているのは『鷣(はいたか)』の方なんです。 タカの一種のようです。 昨年行った、物部の十二所神社の狛鷹が少し気になって。 狛鷹を詳しく書いた回『奥物部へ 其の二、十二所神社』 それで、鳥と神社の関係にくちばしを突っ込みたくなりました、なんて。 あと、飛んできた神様にも興味があるんです。 鳥だけでなく、何かが飛んできたところに神社を建立、的な。 なので、のどQの今年のメインテーマは「飛来神」に決めました。 お年始っぽく、抱負を言ってみる 笑 気にはなってたのですが、今回寄ったのは たまたまです。 同じく大島にあるホテル『椰子の湯』に行ったので、この機会に寄っておかねばと。 『椰子の湯』はお風呂も気持ち良いし、レストランもおすすめです。 元豊ノ島関が監修したちゃんこも食べられますよー。 10年ほど前に、 映画『パーマネント野ばら』 の撮影にも使われてたんですよ。 さて『鷣神社』。 本殿は最近建てられたようで、新しかったです。 階段や鳥居もぴかぴか。 大昔の津波の印がある、と聞いていたので、古い神社を想像していました。 なんの案内もないので、由来も何もわかりません。 見に来る人もいると思われる潮位碑さえも、どれかがわからない。 仕方がないので検索。 ご当地まで行って検索するのって、味気ないなあと思いながら。 結局、潮位碑は、階段の一番上の方にありました。 「宝永地震(1707年)10月4日の大地震で津波がここまで押し寄せる。大島浦全戸流失」 下の道からは、10mほど高さがあるでしょうか。 この位置から眺めてみると、家の屋根の向こうに海が見えます。 あの海が、この高さまで襲ってくるのかと思うと言葉を失います。 実際にこの場に立って眺めてみるとリアルに想像できて、身が引き締まります。 こんな恐ろしいことが起こりうるのか。 安政地震(1854年11月5日)の潮位碑は、一番下、階段7段目くらいのところでした。 しかし...

25. 高知にいます!

イメージ
  高知坐神社。 「たかちにます」もしくは「たかちにいます」と読むらしいです。 でも、地元の人の中には「たかちざ」と呼ぶ人もいます。 呼び方いろいろ、なんてことだ 笑 字面も呼び方も気になります。 これは、行ってみなければ。 いつものように、下調べ無しで出発。 そして、いつものように迷います。 車でウロウロしていると、第一町人発見。 説明上手なおじさんだったので、すんなり到着できました。 なかなかの佇まいの入り口には、石に彫られた長い長い説明が。 とにかく、古い神社のようです。 創祀が第十代の崇神天皇の頃だと書いてあります。 3世紀後半、もう神話の世界ですよね。 ヤマトタケルよりも前なんですから。 神社ってそういうものだろ、ってツッコミが聞こえそう。 40段(目測)ほどある階段は、思ったより登りやすい優しめの階段。 登り切ると、ちょっと広い空間と、高知坐神社が御坐しまする。 本殿は素朴な雰囲気なのですが、漂う空気感は古い神社のもの(個人的見解)。 樹齢400年のイチイガシをはじめ、大きな木に囲まれた空間は静謐です。 怖さはないのですが、畏れというのかしら。 神隠しとか天狗とか、神秘的な想像してしまうような雰囲気でした。 階段を降りて、神社前の空き地で焚き火をしている2・3人の中から第二町人に声をかけてみました。 「それでは、ご説明しましょうか」 と、神社や近くの古墳について丁寧に教えてくれたその方は、高知坐神社の宮司さんでした! なんとなんと。大当たりじゃないですか。 大和朝廷ができる前、この地方は『波多国』(はたこく)だったのだそうです。 高知の中央部の『都佐国』(とさこく)とは、別の文化が育ったようなのです。 波多国の中心は、神社のある宿毛市平田(すくもしひらた)。 (昔は、枚田と記していたらしい) 国造主として天韓襲命(アメノカオスノミコト)さんが派遣されてきたのだとか。 今でいうと、県知事さんみたいなものでしょうか。 そして、多分この方のお墓だったのではないかといわれるのが曽我山古墳だそうです。 神社の北西にあります。 高知県で唯一の前方後円墳だといわれていますが、今は消滅しています。 あー惜しいことを。 昭和50年代から作られはじめた工業団地の建...