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108. 偉大なる祟り神に会いに行く 〜平将門公編〜

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  日本三大祟り神           なかなかインパクトのある言葉です。 なんでもすぐ『三大◯◯』とベスト3を決定したがる日本人。 祟り神までもがその対象になるなんて。 というわけで、三大祟り神。 崇徳天皇と菅原道真公、そして平将門公といわれています。 香川県では、崇徳天皇陵にお邪魔しました。 →コチラ 道真公のエピソードが残る高知県宿毛市にも行ってみました。 →コチラ 残る平将門さんのゆかりの地は、関東が主。 先日、東京に行ったついでに訪ねてきましたよ。 高知では、平将門さんはあまり馴染みがないように思います。 平といえば、平家のイメージですかね。 前にとさみみの皆と『日本一の祟り神は誰なのか』を話したときに、他からは出なかった平将門さんを推したのは、東京育ちのメンバーだったのを思い出しました。 なるほど関東周辺での存在感は絶大なのだなと思ったことでした。 平将門さんといえば、『将門塚』と呼ばれる首塚が有名です。 ビジネス街である千代田区大手町のビルの一角にあります。 30年ほど前、「ここはマジでやばい」という噂を聞いてノコノコ見に行ったことがありました。 なにがやばいか。 そのころはまだフィルムカメラの時代だったのですが、首塚を撮ろうとするとシャッターが下りないだとか、現像したら真っ黒で何も写ってなかったとか。 首塚を何度か移動させようとしたけれど、その度に障りがあって無理だったとか。 戦後、GHQ(第二次世界大戦で敗戦国となった日本にやってきたアメリカなどの連合軍)が首塚を壊そうとしたら工事中に事故があり死者が出たなどなど。 当時、本や雑誌で読んだのであろう都市伝説の数々。 しかもうろ覚え。 まあ、そんなこんなでオフィスビルの中に薄暗く取り残されていた首塚に、ノコノコ行ってみたわけです。 そしてもちろん、びびって写真は撮れなかったわけであります。 そして30年ぶりの訪問。 首塚はとてもきれいに整備され、都会の違和感みたいな雰囲気ではなくなっていました。 今まで6回もの整備工事が行われてきたのだそうです。 カメラもフィルムからデジタルに変わり、ビビらずに写すことができましたよ。

94. ミサキを訪ねて
  〈吉良神社 編〉

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  長宗我部元親さんの逆鱗に触れて切腹を命じられた吉良親実さん。 26歳という若さで亡くなってしまいました。 その後の祟り話の多さたるや。 前回は、その怪異の数々をざっと紹介しました。 →『土佐随一の怨霊譚』 夜な夜な怨霊が出てくるなんて話を聞かされたら、おちおち外を出歩けません。 いや、家の中でも震えてしまう。 400年たった今でもちょっと怖いくらいですが。 いやでも木塚明神として祀ったら祟りもおさまったそうですし、ゆかりの地に行ってみます!

93. 土佐随一の怨霊譚
  〈吉良親実公と従者七人〉

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  このブログでも何度か紹介してきた怪異、『七人ミサキ』。 とうとう本丸、吉良親実(きらちかざね)さんと七武将の回となりました。 そう、高知県を代表する祟り神です。 常々、祟り神って人望や人気がないとなれないものではないかと思っています。 求心力の落ちてきた権力者によってむごい最期を遂げさせられたときに、祟ることが多いなあと。 パターンは色々ありますが。 人々の「かわいそう」という同情が大前提にあって、「いい人やったのに」「悪いことしてないのに」という思いに比例して大きくなるような気がするんです。 つまり、ものすごく祟った人は人気があった人なのではと推測しているわけです。 ということで、まずは『七人ミサキ』の説明から。 災害や事故、水難などで亡くなった人の霊、もしくはそれを祀ったもののこと。 七人であることが特徴です。 よく言われているのは、野や川で変死した人の霊が七人で彷徨っていて、生きている誰かに取り憑きます。 取り憑いた人が死ぬと、七人のうちのひとりが成仏できるというもの。 新たに加わったメンバーと共に、また七人で彷徨うというから恐ろしい。 でも今回は、七人(正確には八人)で化けて出るタイプの話です。

8. 偉大なる祟り神に会いに行く 〜菅原道真公編〜

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  言わずと知れた菅原道真公 合格祈願や七五三など、天満宮にお参りしたことがある人も多いと思います。 その天満宮の祭神といえば、道真公ですよね。 そして、崇徳天皇、平将門とともに、日本三大祟り神とも言われているお方。 無念を残して亡くなった人は、地震・洪水・疫病・飢饉などを起こす怨霊となります。 しかし、鎮めて手厚く祀ることによって神となり守ってくれるという御霊信仰は、他の国の方には理解しにくいかも知れません。 自然に対する畏怖が信仰に結びついてることが多い日本。 謙虚な気持ちを忘れずにいたいなと思います。 流される道真公 さて、道真公。 岡山県の 犬島を調べたとき にも出てきました。 太宰府へ流される途中、嵐に遭い犬の鳴き声に導かれて犬島に辿り着いた・・・というお話。 そして、大きな犬の形の石を見つけたのだそう。 犬島と名前をつけたのも道真公だといわれています。 道真公、他にもこの旅であちこちに寄ってます。 愛媛の川之江や今治、広島の尾道や呉・・・ 小さな船での移動、そんなに早くは進めません。 土佐日記の紀貫之さんのルートを見ても少しずつしか進んでないので、道真公もあちこちに寄ったのでしょう。 『土佐日記』の紀貫之 (934年)55日かけて京に帰る (安達裕之さん監修『日本の船の研究』より) 菅原道真公が太宰府に行くまでに、立ち寄ったと伝説が残るところ まだあるかも・・(901年) 道真公が立ち寄ったとされる土地には、だいたい天満宮が建てられています。 昔も今も、大人気です。 ・・・ 慕われている人ほど大きく祟る気がします。 そして宿毛にも そして、なんと、高知県にも立ち寄っているんです。 嵐に遭い流れ流され、高知県宿毛(すくも)市まで。 これは遠い。 豊後水道の流れに乗ってしまったのでしょうか。 よくぞ、いらっしゃいました。 太宰府に到着したと思うくらい遠かったのでしょう。 「ここも筑紫か?」 とお尋ねになったそうです。 このエピソードから、この辺りが『小筑紫』(こづくし)という地名になったといわれています。 流れ着いたのが小さな島で、そこで7日間過ごされたということから、『七日島』(なぬかじま)という名前になったのだとか。 今は島ではなく、陸続きになっています。 天満宮の境内にある、『七日島』と書かれた...

2. 偉大なる祟り神に会いに行く〜崇徳天皇編〜

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  高松へ 高松に行くことになりました。高松といえば、崇徳天皇ゆかりの地。 祟り神と言われるお方の御陵は、さすがに敷居が高いので遠慮して、住居跡を目指すことにしました。 ナビにしたがいながら、高松市から坂出市へと車を走らせます。 すると、左手に大きな鳥居。青海神社の文字が見えます。 確か、ゆかりの地だったはず。それは、ちょっと寄らねば。 3月中旬、早くも桜が満開です。 後で調べて見ると、河津桜という早咲きのものでした。 綺麗だなと眺めていると、『崇徳天皇陵』と書いてあります。 来てしまったものは仕方がない。 少しお邪魔しようと、気持ちの良い散歩道を上り始めました。 ちょっと登ったらあるだろう、くらいの軽い気持ちです。 なぜか御陵まで登山 しかし、坂道を登ったところにあったのは・・・階段。 この階段を登ったところかな・・・また次の階段。 いやいや、そろそろ流石に・・・次の階段。 後ろを振り返ると、引き返すのは惜しい。 肩どころか全身で息しながら登ります。 そして現れたのは、長い長い階段! まさか、この山を登りきるのか? 疲れた体とはウラハラに、山道がそれはそれは気持ちがいいのです。 道々に並んだ歌碑には、崇徳天皇と西行法師のお歌が。 崇徳天皇の歌は、胸が痛くなるほどの寂しい気持ちばかり。 優しく儚げな印象を受けたので、恐ろしい祟り神のイメージとは結びつきませんでした。 見上げれど階段 山が笑う ヒザも笑う 君の歌だけ泣いている 「こんなことなら、こんぴらさんに登れたやん・・・」 (香川県金毘羅宮785段) と口走りながら、なんとかかんとか到着。 普段なら、御陵にカメラをむけるのを躊躇するのですが、 「こんな思いしたので、じゃ遠慮なく」 という気分で撮影させてもらいました。 御陵は、やはり荘厳な雰囲気でした。 衝撃の事実 苦労して登った御陵。 おや?駐車場? そう、ここまで車で来られたのです! なんだったんだ、この約800段は! 誘われるがままに登っていってしまった、そんな不思議な感じでした。 滝もありますし、山の上からの眺めも綺麗です。 覚悟さえ決めとけば、山道コースおすすめですよ。