94. ミサキを訪ねて 〜吉良神社 編〜

 

長宗我部元親さんの逆鱗に触れて切腹を命じられた吉良親実さん。

26歳という若さで亡くなってしまいました。

その後の祟り話の多さたるや。

前回は、その怪異の数々をざっと紹介しました。→『土佐随一の怨霊譚』




夜な夜な怨霊が出てくるなんて話を聞かされたら、おちおち外を出歩けません。

いや、家の中でも震えてしまう。

400年たった今でもちょっと怖いくらいですが。

いやでも木塚明神として祀ったら祟りもおさまったそうですし、ゆかりの地に行ってみます!


春野の吉良神社(木塚明神)


親実さんが切腹を命ぜられたとき、小高坂(こだかさ)の宿舎にいたといわれています。

まず高知城のあるのが大高坂山(おおたかさかやま)です。

現在は、そこから直線距離で1kmほど西に小高坂地区があります。

少し離れている印象ですが、親実さんの邸趾あたりも昔は小高坂村だったようですね。

ちなみに小高坂と大高坂の間に、中高坂があったという話もあるそうですよ。

幻の中高坂、初耳です。




自害した親実さんと、七人の近臣の忠誠に感じ入った村人たちが、邸趾に祠を建てたのだそうです。

そうして祀られたのが、葛岡神社だそう。

現在は、小高坂更生センターの敷地内に神社趾の石碑が残っています。

そして神社自体は、山ノ端町の若一王子宮に遷座され吉良神社となっているそうです。

葛岡神社は少し小高い丘にあったのだとか。

もしや噂の中高坂では・・・?

という雑念はおいといて、怪我よけの神様として土地の農家さんの信仰も厚かったそうです。


葛岡神社趾


ということで、遷座されたという若一王子宮に行ってみます。

広々とした境内の一角にございましたよ。

なんでも、明治43年に高知師範学校女子部寄宿舎が建設されるということで移されたそうです。


若一王子宮境内にある吉良神社


当時は邸内にあったとされる、親実さんの首を洗ったという手水鉢もありました。




「私は君にあやまちがあれば、道をもって諌める。

これが良臣の節であると思っている。

へつらいを言うものがそばにいたら忠臣諫者は身を引いて、あとは奸臣がはびこる。

長宗我部家の衰退も目の前に見えている。

それを残念で悲しく思う───」

そう言って腹を切ったと『土佐物語』には書かれています。




当初、親実さんの墳墓は小高坂にあったそうですが、春野のマス井山に改葬して社を立てたのが、現在の吉良神社(木塚明神)だということです。




数々の怪異が起こり、元親さんもついに国分寺で数十人の僧侶を集めて供養をします。

それでもあまり効果がなく、悩んだ元親さんは老臣の進言を聞き入れて、木塚の地に社を立て親実さんを祀ったといわれているこの吉良神社。

一説には、供養の最中にひとりの童子が突如、

「我は吉良親実の使者なり。

願わくば神として木塚の地に祀られるならば、満足この上ない。」

と大声で叫んで息たえたのだとか。

どこを切っても怪談が出てくるなあ。


春野の吉良神社(木塚明神)


でも、その言葉どおりに怨霊騒ぎもおさまったそうですよ。

ここも葛岡神社と同じく怪我よけの神様なのだそう。

事故よけのご利益もあるそうです。




境内には『七人ミサキ』の七人を祀った七社明神もあります。

不思議なのが、吉良親実さんを入れたら八人なのに『七人ミサキ』であること。

怨霊、本当は八人なんですよね。

昔の書物にも「主従八人之亡魂」って書いてあります。

これ、親実さんを恐れて数に入れなかったらしいですよ。


七社明神


木塚明神にお参りさせてもらったとき、オハグロトンボが15匹くらい飛んでいて、少し幻想的でした。

8匹だったら、ごめんなさーいって言いながら逃げていたかも 笑

家督争いに巻きこまれ散っていった、将来有望な若者たちに思いを馳せる夏の昼下がりでした。




次回もゆかりの地を訪ねます!→コチラ



参考文献 : 

春野町西分神社総代会『御祭神 吉良左京進親実公資料文献輯』

宅間一之さん著『春野 歴史の百景』

国府村史

市原麟一郎さん著『土佐のごりやくさん』

高知新聞(1984/3/13)市原麟一郎さん文『土佐民話の里めぐり・春野町編』

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