前回にひき続き、吉良左京進親実(きらさきょうのしんちかざね)さんのゆかりの地を訪ねます。→前回『ミサキを訪ねて〜吉良神社編〜』
親実さんより100年ほど後に活躍された儒学者・神道家の谷秦山(たにじんざん)先生が、
「文をもって民を導き、武をもって邪を退け、名君の称あり、領民皆心服し厚く敬せられる」
と著書の中に記したように、親実さんは文武ともに優れた方だったようですね。
かわいそうというフィルターがかかって、親実さん寄りの話が多いのかとも思いましたが、それだけではないのかも。
今回は、名君だった説を裏付けるようなサイドストーリーを紹介します。
親実さんは吉良城と蓮池城の城主であり、蓮池左京進とも呼ばれていたそうです。
蓮池城趾は、現在の土佐市蓮池にあります。
埋葬地ではないのですが、親実さんの徳を慕って里人たちが社を建立したのが蓮池の吉良神社。
今は城山公園となっている城趾の東麓にあります。
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蓮池の吉良神社 |
蓮池城の留守を預かっていたのは、勝賀野次郎兵衛実信(しょうがのじろべえさねのぶ)さんです。
小高坂にて親実さんを切腹させた長宗我部元親さんは、勝賀野さんを討ち取るために名高い剣の使い手を遣わしたそう。
なんでも勝賀野さんは熊のような勇ましい方だったそうで、討手には一騎当千の武士が選ばれたらしいです。
しかも5人が向かったそうで。
討手たちは、隙のない勝賀野さんに、
「貴殿は安心せられよ。蓮池城は元親より貴殿に与えると命を受けて参った。」
などと言って油断させようとしましたが、
「主人を殺されておめおめ生き残るものがあるか。飴で子供を釣るようなことを言っても、この実信はだまされぬ。」
と言ってのけたとか。
そして討手の5人中4人を切り伏せたのですが、最後は首を取られてしまったそうです。
その後、蓮池城下でも怪異が起こります。
日没とともに鬼気が界隈に忍び寄り、夜ふけになると空から気味の悪いうめき声やら、人馬のかけ違う音が聞こえ、人々を戦慄させたそうです。
親実さんを、春野の吉良神社(木塚明神)にお祀りするまで続いたのだと思います。
勝賀野次郎兵衛実信さんも、境内社に七人ミサキのお一人として祀られていますよ。
勝賀野さんといえば、『勝賀野次郎兵衛実信殉職之碑』という石碑もあります。
蓮池の吉良神社から、城山をもう少し南に回り込んだところにあるのですが、植物に隠れてしまっています。
残念な感じ。
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勝賀野次郎兵衛実信殉職之碑のお堂 |
でもちゃんとお堂もあるし、案内板もあるんですよね。
地図では屋敷跡になっていますが、違うという説もあります。
神社を建てようと尽力した方もいたそうなのですが叶わなかったようです。
勝賀野さんのお墓も近くにあるそうですよ。
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勝賀野次郎兵衛実信殉職之碑 |
七社明神に祀られている七人の従者以外でも、親実さんに殉じた方も少なからずいたようです。
そのうちの一人が、今村左馬之介さん。
吉良親実さんにお仕えしてしていたのは間違いないようです。
詳しいことはわかっていないようですが、主君の一大事に何か行動に出たのではないか、しかし病のために時を逸したのではないか、といわれているそうです。
そして、この辺りで自刃し主君に殉じたということです。
今でもこの地に今村神社として祀られておられます。
左馬之介さんの死をあわれんだ地元の方が、主君を祀った木塚大明神(吉良神社)の祭日の翌日を「今村様」のお祭りの日と決めたのだそうですよ。
粋なはからいですね。
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今村神社 |
それにしても、知れば知るほど親実さんは慕われていたのだなと感じました。
人々に人気のある文武両道な甥っ子って、権力者からすると怖い存在なのだろうと邪推してみたり。
土佐市から南国市までの広い範囲で起こった七人ミサキ騒動。
切腹や殉死、討伐などで、短い期間にたくさんの方が亡くなった、かなりセンセーショナルな出来事だったと思われます。
青空の下、眺める蓮池の城山。
つわものどもが夢の跡、という言葉が心に沁みます。
参考文献 : 春野町西分神社総代会『御祭神 吉良左京進親実公資料文献輯』
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