79. 比江山の七人ミサキ

 

災害や事故、水難などで亡くなった人の霊を祀ったものを『七人ミサキ』と呼びます。

七人であることが特徴です。

怪異!七人ミサキ』の回では───


野や川で変死した人の霊が七人で彷徨っている。

生きている誰かに取り憑いてその人が死ぬと七人のうちのひとりが成仏できる。

新たに加わったメンバーと共に七人で彷徨う。


という怪異───と書きましたが、それだけでもない模様。

各地に色んなバージョンがあるようです。




そんな中、高知県で一番有名な『七人ミサキ』といえば、吉良左京進親実(きらさきょうのしんちかざね)さんと比江山掃部介親興(ひえやまかもんのすけちかおき)さんの話です。

今日は、比江山親興さんの話を掘り下げてみたいと思います。




この話は、まず長宗我部元親さんが支配していた頃から始まります。

400年以上前の戦国時代です。

戸次川の戦いで長男を亡くした元親さん。

二男・三男よりも、お気に入りの四男の千熊丸に跡を取らせたいと言いはります。

二男さんが病死した後、三男の親忠さんを推したのが『七人ミサキ』のメインとなるお二人、吉良左京進親実さんと比江山掃部介親興さんです。



比江山城址には比江山神社が建っています


比江山親興さんは、元親さんのいとこにあたります。

南国市にある比江山城主でした。

後継問題の件がよっぽど元親さんの気にそぐわなかったようで、切腹を命じられます。

切腹は高知城内で行われ、その知らせはすぐ比江山にも伝えられました。

夫人と二人の子供そして従者は、新改(しんがい)の善勝寺を頼りに脱出します。




一説では、すぐに追いつかれてしまい、長男は追手に対し剣を抜くも少年のことでたちまち切り伏せられたそうです。

夫人と二男も善勝寺に辿りつくも、門前で自害したとのこと。

二子とも切腹した、という話もあります。

逃げる途中にいた地元の人に、どうか追手には黙っておいてほしいと頼んだのですが、ありのまま告げられたという話もあるそうです。

そのため、この辺りには祟りが多かったとも伝わっています。

刀を持ったお侍さんに凄まれたら、誤魔化すなんて至難の業です、絶対。

祟るなら、切腹を命じた方でお願いしたいところ。




別の説では、寺に着いた一行を住職が匿ったそうです。

しかし国内に人相書きが出回り、賞を与えるとの貼り紙までされたようで、こうなると隠れる方も追い込まれていきます。

とうとう夫人が発病し高熱を出すようになってしまいました。

見るにみかねた従者が、住職には内緒で地元の医師に診てもらおうと頼みます。

欲に目がくらんだ医師はすぐに訴え出たのだそうです。

そして妻子は新改川の川原で斬殺されることに。

それを知った住職は怒り、川原へ駆けつけ自らも川に身を投げ自殺したということです。




『七人ミサキ』は、夫人と子供たちそして従者と住職の七人という説と、親興さんを入れるバージョンなどいくつかあるようですね。


新改の比江山神社の前に新改川が流れています


ここから色々な怪異が起こります。

まずは、告げ口した医師の話。

褒美のお金をもらったこの医師は、居酒屋でたらふくお酒を飲み、ご機嫌で家に帰ってきました。

しかし、女房が出迎えもせずに背中を向けて座っています。

「おい、今帰ったぞ」

肩に手をかけると振り返ったのは、髪を振り乱し青ざめた恐ろしい形相の比江山親興の夫人だったのです。

医師は、持っていた徳利を投げつけました。

「キャッ」と叫んで倒れたのは、自分の女房。

砕けた徳利の破片も、親興さんの子供たちに姿を変えて睨みつけてきました。

結局、医師は気がふれて死んでしまったそうです。




ケチ火(怪火)も出たようです。

城のあった比江山から、夫人や子どもの亡くなった須江の方に向かってふわふわ飛んでいくのだとか。

『カモンさまの火玉』として恐れられたそうですよ。

比江の人には見えぬという伝説もあるそうです。

比江山付近を通りかかって蛍かと思って踏みつけたら、たちまち雨傘くらい大きくなって飛んでいったとか、渦巻きのような怪火になって飛び上がったとか、なかなかに怖がられたみたいです。

「比江山の火玉、掃部(かもん)さまの火」

親興さんが火玉のなって、夫人や子供たちに会いに通ってくるとも言われていたようですよ。

怖いというより切ない話です。


距離にすると4kmほど


ある春の夜更け、比江山のあたりで燈籠の行列を見かけた方もいたようです。

不思議に思って行方を見守っていたら、城山下のさる大きな家に入って行ったそうで。

翌日聞いてみたら、何事もなく誰も来なかったという話だったとか。




怪異の話は、明治から大正になってもいわれていたようです。

300年経っても色褪せない怪異、凄まじいです。

昭和10年に他界した方が若かった頃に、比江のあたりで鎧武者に会い卒倒。

大熱を出してうわごとを口走り続けたのだそうです。

家族の顔もわからず、時に笑ったり怯えたり、手がつけられなかったようです。

突然飛び起きて「我は掃部介親興なるぞ」などとわめき立てたのだとか。

掃部介親興さんのことを知っているとも思えず、周りはギョッとしたようです。

やっと正気を取り戻したとき、鎧武者に会った話をし始めたのだそう。

「その鎧武者は6、7名の従者を従え、長槍を持って威厳のある姿がはっきり見えた」と。

まさに『七人ミサキ』ですね。




長くなってきたので、比江山を訪ねた話は次回『ミサキを訪ねて〜比江山神社 編〜』にて!




参考文献 : 『国府村史』、市原麟一郎さん著『山田・南国伝説散歩』、高知県高等学校教育研究会歴史部会『高知県の歴史散歩』、Wikipedia

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