83. 殿さま、馬から落ちるってよ


 使うまいとは思ってるんですよ、小説『桐島、部活やめるってよ』をもじったタイトル。

また付けてしまいました・・・




さて『桐島、部活やめるってよ』は映画にもなっていて、神木隆之介さん主演で高知が舞台でした。

高知で神木さんといえば『らんまん』が記憶に新しいところ。

牧野富太郎さんが主人公のモデルとなったドラマです。




その牧野富太郎さんの出身地といえば、佐川町。

高知市から車で40分ほど西に進んだところにあります。

江戸時代には、土佐藩筆頭家老の深尾氏の城下町として栄えておりました。

前置きが長くなりました。

今回は、その深尾のお殿さまのお話です。




藩主の山内氏とのつながりも深かった深尾氏、土佐藩の中での力は絶大だったようです。

土佐藩の中に、もうひとつ小さな藩があるかのようだったといわれるほど。

本来なら高知城下に住まなくてはならないところを佐川に居住すことを許され、必要なときに高知城に出向くというスタイルだったそうです。

その城下に向かう深尾氏一行は、まるで大名行列のようなきらびやかさ。

長い棒の先にポンポンがついたような「毛槍」の羽根をなびかせながら、しづしづ練り歩いていたのだそうです。




その行列の中、金銀を散りばめたくらを付けた馬にまたがった深尾のお殿さま。

加茂にある十二所権現の前を通るときに、決まって落馬するんですって。

今日こそは、と警戒していてもやはり落馬。

あっという間にあっけなく落ちてしまうのだそうです。

目のやり場に困ります(←村人目線)


六所神社


度重なるもので、とうとう神官の森源太夫信安さんが、

「わが十二所権現のあらたかな神徳とご威光のよって落馬するので、社前を通るときは馬から下りて歩いてはいかがでしょうか」

と進言したのだそうです。

殿にこれを言ってしまう森さんもなかなかのものです。




しかしそこはお殿さま。

「俺の領地を俺が通るのに、その神託は不都合千万!」

と聞き入れません。

そして、なんと、

「十二所権現を、今後は六所にする」

とご立腹。

衝撃のお裁き。
十二所から半分に減らされるのが罰なのか。

後の三所を下沢に、残りの三所を弘岡に分祀したのだそうです。

でも、残念ながらこれ以降も落馬は止まなかったようです。


この辺りの道でしょうか(真ん中右側の森が六所神社)


そうしてるうちに、実は森源太夫さんが妖術者の名が高く皆の尊崇を集めている、という話がお殿さまの耳に入ります。

落馬は彼の仕業に違いないと、いまや六所になってしまった神社の山の下に牢屋を作って蟄居(ちっきょ)させました。

蟄居させたところは太夫地と呼ばれて残っていたようですが、現在の地図には載っていません。


六所神社


この森源太夫さん、どうやら前回の『機魔ヶ淵は、不気味に光る』の出てきた横畠氏から養子に入ったとかなんとか。

本当のところはわかりませんが、何かしらの血縁はあったようです。

機魔ヶ淵の話は有名だったようですから、その横畠氏ならば妖術者という噂も信じられたのかもしれませんね。


六所神社の鳥居


ところ変わって、土佐市谷地(やつじ)の氏神さまである天満宮。

深尾のお殿さま、この前を通るときにも落馬したのだそうです。

もはや馬の乗り方や、馬との相性に問題が?
とにかく落馬するので、社殿を北向きにしたという話が残っているそうです。

こちらの解決法もユニークですね。

ここは『北向天神』と呼ばれているそうですよ。




今の時代なら、こっそり撮った写真が拡散されそうです。

でも深尾のお殿さまは「生殺与奪の権」を持っていたそうなので、こっそり撮るのも命がけになりますね。

深尾氏の時代も長かったのでどの時代なのかわかりませんが、馬から落ちやすいお殿さまがおられたのでしょうか。




深尾のお殿さまの格好悪い話を書いてしまったので、フォローもしておきましょう。

佐川は文教の地として名高いところです。

良い先生を招いたり、積極的に学問を推し進めたのが深尾氏です。

そのおかげで数多くの文化人が生まれました。

もちろん、牧野富太郎博士もそのひとり。

世界的な植物学者を輩出する地盤を作ったのは、そう、深尾のお殿さまなのですよ!




参考文献 : 加茂村史、佐川町史、高知県高等学校教育研究会歴史部会『高知県の歴史散歩』、高知市HP『あかるいまち・歴史万華鏡』、Wikipedia

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