夏といえば、やはり怪談。
昭和のころは、幽霊は柳の木の下からヒュードロドロ。
そして必ず「うらめしや~」。
額には三角の布、白い着物が定番でした。
怪談といえば『お岩さん』と『お菊さん』が有名どころだったなあ。
今日は、その『お菊さん』が登場する皿屋敷の話です。
皿屋敷といえば、無念の死を遂げたお菊さんが、井戸の中から現れて一枚二枚とお皿を数えるお話です。
東京の江戸番町が舞台の『番町皿屋敷』がよく知られていますし、兵庫県の播州姫路の『播州皿屋敷』も有名です。
でも実は、皿屋敷伝説は高知県にもあるのです───
それは、高知県西部にある宿毛市の湊(みなと)のお話です。
その昔は、湊浦と呼ばれていました。
海が深く、大きな船も出入りする立派な港だったそう。
多くの船が行き交い、商人もたくさん住んで賑やかだったそうです。
宝永の大地震などで大きな被害を受け、海が浅くなってしまったとのこと。
今では、港町の面影は無くなってしまいました。
文政八年(1825年)より百年くらい前の話といわれています。
幡多郡奥内湊浦に、与次右衛門という庄屋さんがいました。
その家の女中は、隣村の伊与野から来ていました。
さて、この庄屋さんの家には10枚の秘蔵のお皿がございました。
ある時そのお皿のうちの一枚が失くなってしまいました。
与次右衛門は、女中を疑います。
強く責め、問い詰めても答えないので、激怒。
竹の簀でぐるぐる巻きにして、縄で縛り庭のすみに転がしておきました。
簀とは、むしろっぽい物のことでしょうか。
これを見て里の人は忍びなく思い、ひそかに縄を解いてあげました。
女中は悔しくて、簀巻きより出て、近くの森で首を吊って死んでしまいました。
駆けつけた親は、嘆き悲しみながら、霊になったなら与次右衛門の子々孫々までこの恨みを報いさせよと、亡骸に言い聞かせたそうです。
それからというもの、与次右衛門の家では奇怪なことが起こります。
夜半すぎにあの女中がやってきて、お皿を一枚二枚と数えていき、九枚目になるとワッと泣き叫びます。
そしてまた、一枚二枚と数えていき嘆くのです。
これが毎晩続きました。
神様や仏様に祈りましたが、いっこうに止みません。
ちょうどその頃、播州より各地を回っている修験者が来ておりました。
与次右衛門は、修験者に話を聞いてもらい祈祷を頼みます。
修験者は引き受けて、夜中を待ちます。
いつものように女中が現れ、お皿を数え始めます。
そして九枚まで来たときに十と言い足してみましたら、その後泣き声が止んだのです。
そこで、修験者は丁寧に祈祷をして、それからは女中は出てこなくなりました。
しかし、病災が絶えないので、伊与野のお寺に小堂を建ててお祀りしました。
その甲斐むなしく、与次右衛門は困窮し庄屋役を他の人に譲ることになり、あげくに病死してしまいました。
その修験者が播州に帰った時に、浄瑠璃作者にこの話をしてできた話が『播州皿屋敷』である、と湊浦の皿屋敷伝説は主張しています。
ここでは、女中の名は特に記されていません。
(女中の名は菊となっているバージョンもあります。)
井戸も出てきません。
つまり、この話を元にして、『播州皿屋敷』は浄瑠璃用に少しドラマチックに仕上げたのではないか、ということです。
日本の各地に皿屋敷伝説はあるようなので、本当のところは分かりません。
でも、メジャーな怪談が、実は高知県発祥かもと思うとワクワクします。
いや、可哀想な事件なのでワクワクしちゃいかんけれども。
幡多郡の幡の字をとって『幡州皿屋敷(はんしゅうさらやしき)』・・・調子に乗りすぎか?
ところで、この話には続きがありまして、与次右衛門の子・和平は家族と共にここから引っ越します。
その時に、お寺に作った小堂も移動させたということです。
宿毛の荒瀬にある地蔵堂のわきに移した、と書かれています。
調べてみると、確かに荒瀬というところに地蔵堂があるんですよ。
伝説は、つぎはぎなこともあるので真実ではないかもしれませんが、お話の一部を垣間見られるような高揚感。
レッツゴー!
地蔵堂、ございました。
きちんとお祀りされているのが分かる、きれいなお堂です。
さっそく、地蔵堂のわきを探ってみます。
お堂の西側、階段を降りた所にお墓のようなものとか、お地蔵さんとかが並んでいました。
結局、皿屋敷の女中さんを祀ったものかどうかは分かりません。
後への宿題としておきます。
ただ、松田川のほとりの気持ちの良い場所でした。
というわけで、湊浦版『幡州皿屋敷』も、どうぞお見知りおきください。
この荒瀬の地蔵堂にも興味深いお話があったので、それは次回に!→次回はコチラ
参考文献 :
広江清さん編『近世土佐妖怪資料』
『皆山集』
橋田庫欣さん著『宿毛市集落の歴史と文化財』
Wikipedia
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