63. 荒瀬の地蔵堂と白いカラス

 

前回は、宿毛市の湊浦に伝わる皿屋敷伝説を探ってみました。→前回はコチラ

そしてお話の中で、夜な夜なお皿を数える女中の霊を祀った小堂を、庄屋の息子が荒瀬の地蔵堂のわきに移した─────ということで、やってきました地蔵堂。

地元の方たちがよく手を合わせにきているんだろうな、と感じられるお堂です。




目的が”地蔵堂のわき”だったために、お堂本体への興味が二の次になってしまってましたが、落ち着いて見てみると・・・お堂の方からも伝説の香りがしてきましたよ・・・





まず、今から千年余り前に、この地域に金龍寺と金蔵寺という2つの寺院があったそうです。

数百年続きましたが、一時は無住寺になっていました。

1628年に伏見の国(京都市南部)からやってきた兄弟が、修行を重ねたのちに住職になられたようです。

当時は、本尊の地蔵菩薩は秘仏だったそうですよ。

しかし、明治3年の神仏分離統合により廃寺となったということです。




でも、お地蔵さまは残ります。

金蔵寺の子孫の方によって祀られていましたが、現在は地区の方々で奉祀されているとのことです。

延命子安のお地蔵さまだそうです。

お堂の中には、産着が何枚も奉納されていました。

祈りって自分以外の人の健康や成長を願うことって多いなあと、ぼんやり考えました。

誰かに祈ってもらえるって、幸せなことですね。




それにしても、皿屋敷伝説に出てくるくらいですから、ご利益がありそう。

皿屋敷の年代的に、その頃は地蔵堂ではなく金蔵寺あったんじゃ?というツッコミは飲み込んでおきますね。




そして、最初に探ったお堂のわき。

お墓っぽい石とお地蔵さまがおられます。

そのお墓っぽい石は、金蔵寺の住職・行海さん(兄弟のお兄さんの方)のお墓だそうです。

皿屋敷の小堂関係ではなかったようです。




ところで、この地蔵堂の入り口の上に『地蔵尊 仙吉先師 堂』と書かれています。

なかなか大きな文字なのに、うっかりスルーしそうでした。

仙吉先師・・・?




仙吉さんは近江(滋賀)の人で、四国巡礼の折に宿毛に来ては、医薬や農法を伝えて領民に尊敬されておりました。

宇須々木(うすすき)の庄屋を宿としていたそうです。

四国巡礼21回目のとき、宿毛天満宮のところで病気になり休んでおりました。

そこに伊部喜左衛門なる者が新刀の試し斬りにやってきて、仙吉さんを斬り捨てたのだそうです

ひどい話です。




すると仙吉さんの死体から白いカラス(鳩という説もあり)が、西の方に飛び立ちました。

屋根に止まったカラスを撃とうと鉄砲をかまえたところ、カラスは火縄をくわえて飛び去りました。

その頃の鉄砲は火縄銃なので、縄に火をつけ火薬に引火するまで少し時間がかかるんですよね。

カラスはそのまま宿毛に戻り、火縄でもって家を焼き払いました。

それが亨保元年(1716年)二月の大火だそうです。




仙吉さんの怨霊を恐れた町民は、荒瀬にお堂を建てたのだそうです。

火難よけの神様として祀られているとのこと。

少し前までは二つのお堂が並んでいたようですが、現在は一つになっています。




宿毛のHPによると、亨保元年の大火から相撲の行事も行われるようになったとあります。

『堂の前相撲』と呼ばれたその行事、今は行われていないようですが、お年寄りの中には火事が起こると「堂の前相撲をやめたからだ」という方もいたと書かれています。

なお、このHPでは、大火は仙吉さんの怨霊説とは別のストーリーになっています。

興味のある方は→コチラ




ある程度人気がないと怨霊ってなれないのではないかと、つねづね私は思っているんですよ。

なろうたって、そうそうなれないって。

個人の勝手な仮説ですが。

仙吉さんは慕われていたのですよ、きっと。




長い間親しまれてきた延命子安のお地蔵さまと、火難よけの仙吉さんのお堂。

なかなかのタッグです。

いいところを教えてくれた、幡州皿屋敷伝説に感謝です。


地蔵堂の入り口の道


参考文献 : 

橋田庫欣さん著『宿毛市集落の歴史と文化財』

『宿毛市史』

地蔵堂内の由来記













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