112. 悲劇の宰相か、はたまた鬼か

 

「米不足」「米の値段が高騰」という文字が、ニュース記事をにぎわせております。

最近の天候不順は深刻です。

そんな中、高知市の春野地区を通りかかったとき、実りかけた稲がそよそよと揺れている風景が広がっていました。

400年ほど前に、荒地に用水路を作る指揮をとった野中兼山さんと、実際に働いてくれた多くの人々に感謝やなあと、しみじみ思いました。




山内家と親戚関係だった野中兼山さんが、土佐藩執政の座についたのは22歳。(一説には17歳)

他の年長者を差しおいてですから、さぞかし周りは面白くなかったことでしょう。

財政を確立するために、新しい田んぼを作り年貢を増やそうと仕事に邁進していきます。


野中兼山の像(春野)


仕事はできる方だったのは間違いありません。

ただ、仕事の進め方がかなり厳しかったようです。

取れ高の三分の二を年貢として納めなくてはならなかった頃。

その上、農閑期の4ヶ月は土木仕事をしなくてはならない。

しかも厳しい。

もう民から好かれる要素がないです。

でも、最終的に三万石増えたとか、いや七万五千石増えたとか色んな説があります。

一石は約150kgだそう。

しかし、ケタが大きいと想像が追いつかないっす。




野中兼山さんの仕事は、今見てもきれいに出来ています。

高知県の東に西にまたがっているので、全てが兼山さんの業績なのかという疑問もあるようですね。


物部川や仁淀川、四万十川などの大きい川に堰を作り、井筋(用水路)を整備。

新田を多く開発しました。

おっと、夏の自由研究みたいになってます 笑


後川(うしろがわ)の麻生堰(四万十市)

麻生堰からの用水路、安並(やすなみ)の水車


井筋を三つに分けた「三又」と呼ばれる分水点もあります。


昔の雰囲気を残す三又(野市町)

海周りには危険が多かったので、高さの違う用水路と川を結んで、木材の流通を安全にした新川の落としと呼ばれる構造物もあります。


新川の落とし(高知市春野)


手結(てい)港や津呂(つろ)港のように港を改修し、航海の安全を保証したり漁場の開発にも力を注ぎました。


手結港(香南市夜須)


大月町の柏島には石堤と呼ばれる防波堤も残っています。


柏島の石堤(大月町)


野中兼山さんが執政だった約30年の間に、たくさんのことを成し遂げました。

仕事は成果をあげましたが、敵も多く作ったようです。

きめ細かくて抜け目なく、山村の隅々まで目が届くような政治。

掟でガチガチ、農民は生かさず殺さず働かせる。

自分の土地を捨てて、伊予や阿波に逃げる「走りもの」もたくさんいたようです。

独裁と言ってもいいような思うままに行う政治で、侍たちにも恨みを買っていたのでしょう。

最後は追放されてしまいました。

息のかかった家臣も追放、家族も幽閉されます。




現在の香北町土佐山田に囚われた兼山さんは、5ヶ月後に49歳で亡くなってしまいました。

家族は現在の宿毛市に幽閉され、次々亡くなりました。

末娘の婉(えん)さんだけが43歳でゆるされて高知に帰ってきました。

お家断絶です。

兼山一族の罪が解かれたのは嘉永元年(1848年)、なんと183年後だそうですよ。


家族が幽閉された跡地(宿毛市)


兼山さんとたくさんの民によって作られたといわれる土木構造物は、水辺にあることが多いので気持ちがいいです。

写真映えするものも多いですよー。

仕事が出来ても、やり方がワンマンだと・・・・シゴデキさんは気をつけましょうね!




参考文献 : 小川俊夫さん著『野中兼山』、山本大さん編『郷土史事典 高知県』、平尾道雄さん執筆および監修『土佐 その風土と史話』、土佐教育研究会社会部会編『高知の歴史ものがたり』



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