50. 恨まずにはおれませぬ

 夏ですから、怪談話をひとつ。



時は江戸時代、宿毛(すくも)市の話でございます。
山内一豊公の甥が、宿毛山内家領主として土佐西部の守りについていました。

物語は、三代目の節氏(ときうじ)の時代。
節氏が、奉公に上がった町屋の娘・おなあに手をつけたところから、この話は始まります。




ほどなくおなあは懐妊。
節氏の奥方は嫉妬深く、出産には反対します。
重臣たちも、後々の問題になることを心配し、やはり反対の立場です。
男の子であれば殺してしまおうという事になりました。

その役目に選ばれたのは、おなあの侍女およきでした。




おなあは、玉のような男の子を産みます。
しかしおよきには、どうしても殺すことができません。
とうとうおなあに相談し、男の子をよそに預け、節氏には命ぜられた通りに殺したと報告しました。



男の子は、宿毛から少し離れた柏島ですくすく成長します。
そして15歳で元服、つまり一人前と認められる歳になったので、おなあも大丈夫だろうと節氏に息子のことを話しました。
すると節氏は許すどころか、主命に従わなかったことに腹を立てます。
その子には切腹を命じ、おなあとおよきを牢屋に入れたのです。


大月町の柏島


おなあとおよきは、塩責めの罰に合います。
塩責めとは、毎日塩辛いものだけを食べさせて、水を一滴も与えないという過酷なもの。
しかも窓からは、とうとうと流れる水が見えるのです。

なんと過酷で意地の悪い刑罰でしょうか。



その時に牢の番人をしていたのは、岩村久兵衛という者でした。
苦しさに泣きわめく二人に、「何を騒いでおるか、だまれ!」と大声で叱るふりをしながら、水で濡らした手ぬぐいを牢の中に投げ入れていたと言われています。
おなあとおよきは、むさぼるように口に含んだことでしょう。
しかし二人は、どんどん衰えていきました。



ある朝、九兵衛が獄舎に向かっておりますと、向こうから白装束を着た女の人が二人やってきます。
それは、おなあとおよきでした。
「ずいぶんお世話になりました。
私たちをひどい目に合わせ殿様には、恨みを晴らさずにはおれません。
しかしお世話になったあなたのお家は、私たちが守ってあげます。」

と言い残し、去って行きました。




不思議に思いながら獄舎に行ってみると、二人とも息絶えておりました。



その後、

「夜な夜な二人の墓から火玉が出て、領主の館の方へ飛んでいく」

「火玉は、殿様に食いついて苦しめている」
「今夜もすげ笠をかぶった二人の女が、川を渡って館の方へ入って行った」
などの噂が広まったそうです。



そして、節氏の孫が次々に早死にしてしまう事態に。
そこで二人の法要を行い、お墓をきちんとします。
しかし不幸は、止まりません。
とうとう節氏も亡くなってしまいます。



四代目は、節氏が亡くなったので祟りも終わるだろうと考えていたようですが、そうはいかない。
ここで、宝永の大地震そして大津波が起こります。
同じ宿毛市にある鷣(はいたか)神社には、10メートルほどの津波が来た記録が残っている、あの宝永地震です。

詳しくは→『タカの神社に詣でたが、タカの夢は見えず』の巻

皆は、これも祟りだと噂したということです。



結局、その後も早世が相次ぎ、80年後七代目が『和守神社』を建立します。
神社には『みこもり』と書かれていますが、元々は『にこもり』だったという話もあります。
祭神は、おなあとおよき、そして節氏の三柱。
穏やかに仲直りしてくださいの意味を込めて『和(にこ)』の文字を付けたとも言われています。


和守神社


興味深いのが、牢番の九兵衛さん。

二人が守ってくれているのかどうなのか、久兵衛さんの血筋からものすごい人物が出ます。
なんとなんと、ひ孫のひ孫にあの吉田茂の名前が。
国葬された総理大臣としておなじみの、あの吉田茂ですね。
いやあ、すごい。

てことは、ボルサリーノが印象的なあの方にも行き着くのですね。



領主様には逆らえず、側室も許された時代のお話。

和守神社の皆さんが、仲直りできていたらいいですね。

昔々の、お話でした。



参考文献 / 橋田 庫欣さん著宿毛風雲録

コメント