96. 続・久保村の伝説

 

天明8年(1788年)の山崩れに巻き込まれ無くなったといわれる久保村(現在の香美市物部町)の話の続きです。

豪胆不敵の豪傑だったといわれる、久保家の当主であった源兵衛さん。

ヌシが住むといわれ誰も近づくことのなかった轟の釜で、『から川流し』と呼ばれる漁をしたことで山崩れを引き起こしたという伝説が残っています。

くわしくは『久保村の伝説』の回に紹介しています。




『久保村の伝説』のときは分からなかった『から川流し』。

何かを流して、気絶するか死ぬかして浮き上がってきた魚をとるという漁法。

山椒を使うところもあるという話でした。

「空川流し」と書くようですが、別名「唐金流し」ともいうそうです。

或種の金属を粉末にしたもので、これを水中に投げ込めば、水中の生魚はことごとくその種族を絶つという不思議な劇薬なのだそう。

なんの金属なんだ・・・それにしても大胆な漁法です。




前回は、その山崩れで生き残った方々が祀ったという久保神社に行きました。

物部(ものべ)町に行く機会があったので、今回は久保村のあったあたりに行ってみましたよ。




物部町には、平家伝説もいろいろ残っています。

山に挟まれた深い谷間のところどころに集落がある印象。

隠れ里という言葉がしっくりくる集落も多いです。

谷間を流れる川は、ゴツゴツした岩ときれいな水で美しい風景。

これに紅葉が加われば、のどQでもカレンダーのような写真が撮れそうです。




「いざなぎ流」という民間信仰が残っていることでも知られる物部町。

集落と集落の間に『道切り』のお札もありましたよ。

村や町の境から魔や疫病などの災いが入ってこないようにというおまじないの習俗ですね。




物部町を上韮生川(かみにろうがわ)に沿って奥へ入っていくと、久保高井という地区があります。

そこに、石の記念碑が建っています。




天命年間に窪源兵衛(石碑では窪になっていました)一族が唐金流しをして変災にあったこと。

久しく原野山林に覆われていたこと。

昭和4年から測量や設計をして耕地整理が行われたこと。

そして水路や田畑も整ったこと。

などが書かれています。たぶん。




天明年間は1781年から1789年までなのですが、各地で洪水が起こり、浅間山も噴火、そうなると飢饉にもなり、京都では大火まであったようです。

そんな中、久保村でも大雨そして山崩れが起こったということです。

崩れた土砂で川の水は堰き止められ、付近一帯は水の中へ。

逆巻く水は、上流に押し寄せたそうです。

堰き止められた水は、2年後に決壊。

もう想像するのも恐ろしいです。




異常気象によるゲリラ豪雨は、現在、世界各地で起こっています。

久保村の災害もそういうことだったと思うのですが、ちょうどのタイミングで『から川流し』をしてしまったのでしょうね。

まさか250年も語り継がれるとは。

だから、やめとけと言い伝えられていることはやめとけってことでしょうか。




久保高井の風景は、そんな災害があったなんて信じられないほどのどかでした。




『から川流し』をしたといわれる冬谷の轟の釜。

なんでも三つの淵があって、一の釜、二の釜、三の釜と呼び、それを総称して轟の釜といったそうです。

昼でも暗く水がごうごうと轟きわたり、底知れぬ淵は神秘に包まれていたので、近づくものもなかったそうです。

下流には魚が群れをなしていましたが、釣りをする人も網を投げ入れることもせず、年月を過ごしてきた場所だったとか。

「入らず川」とさえいわれていたそうです。

そんなところで魚をとろうなんていう源兵衛さん、まさに豪胆不適の豪傑ですね。




冬谷橋というのがあるらしいので、橋をチェックしていたのですが見つけられず。

帰ってきて地図を見たら、わざわざ車を停めて下を流れる川を眺めたところが冬谷橋だったことが発覚。

道路のフリしてたけど、思い返せば確かに橋だった・・・

完全に見過ごしてしまいました。

川の一部は、砂防ダムになっていました。




ただ11月にしては暑くてやたら蚊がいて、落ち着いて見られなかったのが本当に残念。

なんなんだ、今年の蚊は!

と、プリプリしていたのですが、昨今のゲリラ豪雨と11月まで元気な蚊は、根本は同じ問題ながよねーと考えながら、大栃まんじゅうを食べて帰りましたとさ。




参考文献 : 物べ村誌、四国災害アーカイブスHP



コメント